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MOVIE LOVERS' PLACE

映画の感想などを綴っていきます。

映画『バートン・フィンク』の感想や解釈など<ネタバレあり注意>

サスペンス 歴史 監督 社会

こんにちは。

 

 

なぜか昨夜韓流アイドルの動画をひたすら観てしまったもとこです。

 

 

韓国のアイドルグループって、アメリカとか海外の歌手の曲をカバーしてライブなどで歌う人が多いですよね。ターゲットにしているマーケットの違いなのか、テイストの違いなのか、日本のアイドルはあまりそういうことしない気がします。AKBがリアーナのカバーとかしないですよね笑

 

 

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これとか

 

 

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これとかですね。

 

 

海外進出を考えてて、英語も上手なんだったら、海外ドラマとか出ればいいのに( ^ω^ )と思いました。アジア人の美女役とかで。

 

 

さて、本日の映画は『バートン・フィンク』です。

 

 

コーエン兄弟制作の1991年の映画です。

 

 

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ざっくりとしたストーリーとしては、ニューヨークでライターをしている青年バートン・フィンクがハリウッドにやってきます。そして契約しているスタジオに脚本を執筆するため、あるホテルに宿泊します。そこで同じフロアに宿泊していたチャーリー・メドウズと知り合います。そこから色々なことが起き・・といったストーリーです。

 

 

まず、映画としての完成度が大変高い作品だと思います。いや、高すぎるかもしれません。思わずヒューマンドラマの映画と錯覚してしまいそうになる穏やかな前半、そこから「事件」が起きた後の後編への流れが見事です。

 

 

事件が起きるまでの不穏な伏線、そして事件、そこからの飽きさせない展開、完璧に計算し尽くされた脚本です。最早美しいと言っていいです。また回収していない伏線があるので深読み要素も満載です。また映像的な表現も多く、映画として充実しています。映画の、映画による、映画のための作品です。小説原作や実写化とは一線を画す、オーダーメイドのサラブレッドという感じです。

 

 

しかしながら少し完成度が高すぎる気もします。つまり過ぎたるは及ばざるがごとしというやつです。「皆まで言うなよ、無粋だから故に」という気もするのです。とはいえここまで面白い作品が観れた記念に、感想をここに綴っていくことにしました。

 

 

 

 

<ここから先ネタバレ注意>

 

 

 

 

 

何と言ってもキーマンになるのはチャーリーです。もうね、しょっぱなから胡散臭すぎるんですよ。初めからいやにフレンドリーだし、スマイル全開だし。バートン・フィンクに初めて会ってから「俺たち真の友達だぜ」まで10分かかってないですからね。それに耳垂れという持病があるから脱脂綿を耳に詰めて、いつでも汗だく。ちょっとキャラデザイン強烈過ぎじゃないの、コーエン兄弟さん、って感じです。ちなみにあまり整備が行き届いていないため、ホテルの壁紙も露で何度も剥がれます。このへんはリンクされているのですね。

 

 

さて、脚本の執筆に行き詰まったバートン・フィンクは、尊敬する小説家・脚本家であるW・P・メイヒューに相談しにいきます。そこで知り合った彼の恋人兼秘書のオードリーに一目惚れします。

 

 

ある晩、煮詰まったバートン・フィンクはオードリーに助けを求めます。そしてバートン・フィンクが宿泊するホテルに来てくれたオードリー。二人は良い仲になるものの、翌朝目覚めたバートン・フィンクの隣に横たわっていたのは血まみれのオードリーの遺体でした。そして気が動転したバートン・フィンクはチャーリーに助けを求めます。

 

 

さて、チャーリーは実は警察に追われる連続殺人鬼であると判明します。チャーリーも実は偽名で、本名はカール・ムントです。本名からも推察がつくように、彼はドイツ系でした。そして熱狂的なヒトラー信者でした。また今でもユダヤ人を蔑視し、ファシズムの時代に憧れの念を抱いています。

 

 

チャーリーははじめバートン・フィンクを殺害する予定でした。そもそもホテルを宿泊場所に選んだのは、ユダヤ系の客が多く宿泊するホテルだからです。そして彼の部屋にお酒を持って訪れます。しかしながら、孤独な執筆生活に苛まれていたバートン・フィンクは久々の話し相手とお酒でついチャーリーに自分の感情をぶつけてしまいます。この瞬間にチャーリーはバートン・フィンクを殺害するのを辞めました。

 

 

物事の本質を何も分かっていないハリウッド、それは愚の象徴です。そしてバートン・フィンクの作品の本当の良さも分からずに商業主義から下らない脚本を書かせるスタジオの社長はハリウッドそのものです。何も分かっていない癖に、自分だけは君の作品の良さを分かっているといい、大衆迎合的なプロレス映画の脚本をバートン・フィンクに書かせる社長。その矛盾が頂点に達するのが社長がバートン・フィンクの靴にキスするシーンです。

 

 

そんなハリウッドに位置しながら、土地柄とは一線を隠すホテル。そこではハリウッドの抱える矛盾が露にように染み出してきます。どんなに壁紙で覆っても溢れ出してくる、商業主義と反知性の残滓。またバートン・フィンクがフロントに壁紙が剥がれているので修理するように電話しても、きちんと対応されません。代わりに部屋に置かれたピン。これで壁紙を直すようにというフロンマンのチェットからの手紙。

 

 

これも普通に考えたら変ですよね。普通はホテルが修理するべきで、それを宿泊客にやらせません。これはチェット、つまりホテル(=ユダヤの象徴)からのメッセージでした。「西側諸国との問題はいつだって自分の手でどうにかする必要がある。それが我々ユダヤ民族なのだ。」という。

 

 

さて、殺害されたオードリーもユダヤ系でした。実は長年愛人をやっている小説家のW・P・メイヒューのゴーストライターとして彼女は暗躍していました。知恵を持って世界を影から支配する存在であるユダヤ人の象徴です。しかしながら彼らは控え目であるため、表舞台に立とうとしません。そんなユダヤ人の手柄をとって表舞台で名声を集める人たちの象徴がW・P・メイヒューです。彼ものちにチャーリーにより殺されます。

 

 

さて、チャーリーはきっと二重人格だったのでしょう。なぜなら、偽名であるチャーリーとはチャップリンの愛称でもあるからです。ヒトラーファシズムを批判し、真に平和な世界が訪れるように願ったチャールズ・チャップリン。そんな彼のことをもう一人のカール・ムントであるチャーリーは崇拝しているのです。

 

 

movielovers.hatenablog.com

 

 

この極めて相反する性格が露見するのが、チャーリーが殺害したオードリーの頭部を入れた小包をバートン・フィンクに渡した後です。はじめは自分の所有物だから預かっといてくれ、と渡します。しかしニューヨークでチャーリーの親族(彼らもユダヤ人)を殺害しハリウッドに戻ってきたあと、チャーリーはこう言うのです。「俺のものでは無かった。」と。

 

 

これは反ユダヤ主義のカールが殺害した遺体は、チャップリンを崇拝するチャーリーのものでは無いと考えれば説明がつきます。一つだけ共通しているのは、この二つの人格は欺瞞が大嫌いで矛盾と利己主義が溢れる現代社会に反発していると言うこと。だからこそハリウッドに作風に合わない脚本を執筆させられて苦悩するバートン・フィンクのことを殺害するのを辞めたのです。しかしながら自分こそが一番の自己矛盾を抱える存在であることに気付き、チャーリーは火をつけたホテルでそのまま死ぬことを選びます。

 

 

チャーリーがバートン・フィンクを助けるため、火のついたホテルでベッドを壊して開放するシーンはこの映画の一番の見所です。アメフトをやっていた怪力チャーリーは必死の形相で鉄製のベッドのパイプを曲げ、警察に施錠されたバートン・フィンクを開放してあげます。「もうこれ以上ハリウッドに囚われる必要はない、自分らしい作品を書け」というメッセージです。

 

 

そしてパイプが曲がった時に、球体の鉄のボール(ベッドの部品)が部屋の床に転がり、アップになります。ここは映画的な表現が卓越したシーンです。この鉄級は世界の象徴です。「自分らしく生きることで、世界の覇権は手に入らないかもしれないけど、それよりも大切なことは真に社会に伝えたいメッセージを作品に込めることだ。」ということですね。コーエン兄弟の作品観のようなものも感じられます。ちなみに映画『独裁者』の中で、チャップリン演じる大総統はボールで出来た地球儀でバレーボールをして遊ぶシーンがあります。

 

 

そしてチャーリーに助けられ警察の手を逃れたバートン・フィンク。残念ながら彼のキャリアで最高傑作と思われた脚本はスタジオで認められず、もっと大衆的なプロレス映画を書くように社長に伝えられるのでした。そして脚本と小包を持って海岸に行くバートン・フィンク。そこには美人の女性が水着姿で佇んでおり、それはホテルに掛けられてあった絵画と瓜二つの光景でした。

 

 

これは結局世の中は表面的なものしか理解できていない、物事の深淵に目を向けようとしないことを冗談交じりに嘲笑った描写ですね。だからこそ女性は美人だし、後ろを向いているのです。そしてその光景を見て逆に肩の荷がおりて軽くなるバートン・フィンク

 

 

これは浮世絵の発想と似ていますね。もともと浮世絵は「憂き世絵」と書かれ、「大変なことだらけの世の中」を意味していました。そこから、だったら笑って浮かれてしまおう、という発想になり現在の漢字が使用されるようになったと言われています。この境地に立つことが出来た脚本家バートン・フィンクのキャリアは、これから作品に恵まれた明るいものとなることでしょう。