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MOVIE LOVERS' PLACE

映画の感想などを綴っていきます。

アキ・カウリスマキ監督『罪と罰』を観た感想など<途中からネタバレあり!注意>

ヨーロッパ 監督 社会

こんばんは〜。

 

 

麗らかな春の日ですね。関東は今日は比較的暖かいです。でも完全にあったかい!って感じではなく、少し空気がウェットでひんやり感も残ってます。

 

 

こういう気候の日の夜に、さらっと軽い上着に歩きやすいフラットシューズでヘッドフォーンで好きな曲聞きながら散歩すると最高ですよね。ほとんど散ってしまった桜の木を眺めてみたり。

 

 

そして目についたお店に入ってみたり。

 

 

私の場合今日は目についたのがモスバーガーだったので入ってみましたよ。決してオサレカフェではありません。そして期間限定のクリームチーズテリヤキバーガーを注文してみました。

 

 

味は、そうですね、そもそもテリヤキバーガーよりテリヤキチキンバーガー派なので・・。これをグランドメニューではなく期間限定にしたモスはわかってますね。

 

 

そういえばモスって「野菜増し」ができるんですよね。無料で。響きが二郎っぽいですけどちゃんとできるんです。こないだレジでお願いしたらできましたよ。新人さんぽかったので「なにそれ?」って顔されましたが。ちゃんとテリヤキチキンバーガーのレタスが多めになってました。

 

 

さてさて、本日ご紹介したい映画はアキ・カウリスマキ監督の『罪と罰』です。

 

 

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この映画はカウリスマキ初の長編映画で、なんと彼が26歳のときの作品です。26歳にしてこの世界観を確立するとは・・・恐ろしい才能ですね。

 

 

公開されたのは1983年で、フィンランドの映画です。

 

 

カウリスマキ映画って、まずセリフが短いですよね。そして役者の大げさな演技もない。そして派手なアクションやCGもほとんどなく、淡々と物語が進みます。それにも関わらず映画が空間を満たしていて、最後まで全く飽きないのも特徴です。また音楽が重要な意味を持つ作品が多いですね。シンプルなシーンだからこそ音楽に独特のエッジが効いていて存分に楽しめます。

 

 

カウリスマキ初のこちらの映画でもその作風は健在です。またドストエフスキーの同名の小説から着想を得ている点も注目ですね。ただし、やはり彼の後年の作品に比べて「何か爪痕を残してやろう」という意図を随所に感じるので、そこが若さと言えば若さなのでしょうか。

 

 

ドストエフスキーの小説と同じく、「非凡ではない人物が、何かしらの正義や思想のために犯す犯罪は許されて然るべきである」という主人公の独特の考え方に基づいて事件が起こるところからこの映画ははじまります。

 

 

主人公の名前も似ていますし、また主人公を支える女性の存在も原作の小説と似ていますね。

 

 

<ここから先ネタバレ注意です!!!>

 

 

 

 

 

 

この映画では、ドストエフスキーの小説に着想を得ていますし、その構成も似せていますが、ちょこちょこカウリスマキの思想も入っている点が面白いですね。

 

 

たとえば主人公の殺人の理由は、昔愛していた女性を殺されてしまったことに対する復讐であり、社会のためというよりは私的な要素が強いです。それから小説と異なり、主人公は殺害行為自体にほとんど罪悪感を感じません。

 

 

また、正当化されるべき殺人と公共益との関係性というよりも、もっとシンプルにカルマとか「罪と罰の違いはなあに?」といったことがテーマとして強いと思います。

 

 

たとえば、冒頭のシーンからしてもうクギ付けになってしまったのですが、主人公の男性が生肉工場でお肉を解体するところから始まります。それも全く美しいシーンではなく、ゴキブリがいたり、エプロンで汗を拭ったり敢えて嫌悪感を強調しています。

 

 

人間も日々牛や豚を殺してそれらを食べて生きているし、他者の命を奪っている。そもそも生きるとはそういうことだ。あいつも俺の最愛の人を殺した。だから俺があいつを殺すんだ。

 

 

って感じで、そこまで殺害に罪の意識を持っていない主人公の考え方がこの冒頭のシーンでよく説明されています。

 

 

またこの映画では、ドストエフスキー以外にも着想を得ている小説として芥川龍之介の『蜘蛛の糸』があげられると思います。

 

 

『蜘蛛の糸』ではカンダタというありとあらゆる悪行をつくした男が、たった一つの過去に行った善行がもとで地獄から救い出されそうになるも、結局また自身の悪行が原因で地獄に落ちるという話ですね。

 

 

映画のラストシーンでは、主人公の男性が面会に来た女性に向かってこういいます。

 

 

「俺には何も残らない。これから先は虫ケラとして生きるのだ。強いて言うならクモが見えた。でも何もない。」

 

 

主人公の男性も映画の中で一つだけ善行をしているのですね。それは何気ないシーンなのですが、映画の中盤で物乞いの女性にストリートで小銭をあげるのです。

 

 

『蜘蛛の糸』って、結局どちらにせよ蜘蛛の糸は切れてしまっていたと思うんですよ。小説の通りカンダタが他にも群がる罪人たちを振り切っても糸は切れたし、そうしなくてもいずれ重みで切れてたと。ただカンダタに救われたクモが最後に彼に謝辞を示したのが、あの一本の糸だったというのが個人的な解釈です。

 

 

仮に映画の主人公の頭の中に、この世には救いも何もないという発想があったときに、彼にはクモが見えているのに、救ったクモは糸をくれなかったという意味につながってくと思うんですね。

 

 

そして、主人公は自首する前にこう言います。

 

 

「女は塵みたいなものだ。そしていずれ散っていく。」

 

 

これはもちろん彼の自首を促す女性のこともさしていますが、彼が救ってあげた女性ホームレスのことも指していると思います。

 

 

クモというのは彼の人生の中で善行を施してあげた数少ない存在で、彼は覚えていてもクモは覚えていない。だからクモの姿は見えても糸は垂れてこない。塵と同じく消えてゆくだけ。そしてそれは元恋人を失ったという苦い思い出につながっていくわけです。

 

 

女性のホームレスって見た瞬間は少し違和感を感じたのですが、そういうわけで監督の中ではこの役は絶対に女性でなくてはいけなかったんですね。きっと。

 

 

つまり基本的に女性は塵と同じようなもので期待してはいけないけど、塵も積もれば、人生の希望のあかりになることもある。

 

 

というテーマを感じました。これは彼の作品『街のあかり』『過去のない男』でも共通ですね。

 

 

いずれにせよ、齢26歳でこの映画を作るとは、うーむ、やりますね。

 

 

話が飛びますが私は以前カナダにいたことがありまして。そのとき知り合ったドイツ人の女性に、なんでバンクーバーにきたのか聞いたんですよ。

 

 

「だってドイツもドイツ人もつまらないし。」

 

 

と言われて驚いたのを覚えています。日本人の私にとっては日本はつまらないし、それは彼女にとってのドイツなんですね。

 

 

私たちはみんなレンズを持っていて、独自の解釈で脳内に映画を作っていると思うんですけど。地域も時代も性別も身分も何もかもが違う人が見た世界が、独自に解釈されて出来た物語がどうしてこんなに共感できるんだろう。感動できるんだろう。と思うことがあります。

 

 

人間の見ている世界は一人一人全然違うはずなのに、すっごく同じことを思っていることもある。元のレンズが違えば違うほどそのことに驚く。

 

 

それでも共有している世界は確かに一つなんですけどね。